皆さんは、
教育虐待
という言葉を聞いたことはあるでしょうか?
このブログでは、教育虐待について、18歳の僕が自らの経験とともに考えていきます。
全ての親と、全ての親になる子供、未来の自分に向けて、
『教育虐待』という言葉の
説明をしていきます。
人類であるならば、全ての人に関係する教育の問題です。
是非最後までご一読ください。
考える前の前提条件
『教育』と『虐待』の共通項
全く違う意味である二つの熟語。
教育虐待について考える前に、
教育とは?虐待とは?
について再確認しておきます。
(以下はWikipediaからの引用です。)
教育(きょういく education)は、教え育てることであり、ある人間を望ましい状態にさせるために、心と体の両面に、意図的に働きかけることである。教育を受ける人の知識を増やしたり、技能を身につけさせたり、人間性を養ったりしつつ、その人が持つ能力を引き出そうとすることである。
虐待(ぎゃくたい、英:abuse, maltreatment)とは、繰り返しあるいは習慣的に、暴力をふるったり、冷酷・冷淡な接し方をすることである。具体的な内容は様々で、肉体的暴力をふるう、言葉による暴力をふるう(暴言・侮辱など)、いやがらせをする、無視をする、等の行為を繰り返し行うことをいう。
僕が注目して欲しいのは、
赤マーカーを引いた部分です。
二つの概念に共通することがあります。
他人が、ある個人に意図して影響を与え、変容を促す。
ということです。
教育も虐待も、ある意味ではどちらも
『他人への干渉』
なのです。(※干渉というとネガティブなニュアンスがあるかもしれませんが、ここでは単に「他社に影響を及ぼす事」という意味で用いています。)
では、どのような点が、教育と虐待の差を生み出しているのでしょうか?
それを考える前に、まず以下の考えをお読みください。
干渉を受ける側の感じ方次第
皆さん、『いじめ』について昨今様々な議論がなされています。
- いじめた側が100%悪い
- いじめられた側にもある程度非がある。
- いじめによる自殺をどう防ぐか?
など、ワイドショーでもよく取り上げられています。
ここで注目しておきたいのは、
いじめられた側が「いじめだと感じた」ら「いじめ」
と言うことです。
要するに、
干渉を受けた人がどう感じるか
が重要になるのです。
これを踏まえて、教育虐待について更に考察していきます。
教育と虐待のリンク
二つの例、教育か?虐待か?
では、次の二つのパターンを例に見ていきましょう。
例①
一人息子を持つ、ある夫婦がいます。
両親は、息子を医者にしたかった。医者になれば、将来職に困ることは少なく、安泰して幸せに過ごせるだろうと。
医者にするべく、幼いころから塾に通わせます。難関の中高一貫校の中学受験をさせる予定です。
しかし、小学5年生の息子が思うような成績ではなく、このままでは希望の中学に入れません。
そこで、両親は、塾の授業数を増やしました。
毎日放課後はすぐに塾に向かい、夜10時近くまで授業を受ける。さらに日曜日も模試などで埋めたのです。子どもの将来のことを思い、母親、父親2人とも身を削って息子の受験サポートをしています。
子供が勉強したくないと不満を述べても心を鬼にして叱り、勉強させました。息子は1日のほとんどを、籠もりきりで勉強して過ごすという様な生活を約一年続けました。
例②
小学一年生の息子を持つ、ある母親がいます。
数年前夫に先立たれたことをきっかけに、シングルマザーになりました。
そのころから精神的に不安定になってしまった母親。
1人残された息子に対しての愛情は日に日に強くなりました。
「この子の事は私が守る」
そんな思いが異常なまで強くなった母親は、様々な危険が潜む外に外出する事を禁止しました。息子を部屋から出られなくしたのです。
外へ出たいといって言う事を聞かない息子に、強く言います。
「あなたの為なのよ。なんでわかってくれないの!」
その後も長い間、母親は息子を監禁しました。
以上の二つの例、通常は、
例①=教育
例②=虐待
と捉えるのが一般的でしょう。
実際僕もそう思ってきました。
しかし、一概にそうは言い切れないことに気づいたでしょうか?
どちらも、『虐待』の条件に当てはまってしまうのです。
「いやそれは、言い過ぎだ!」
「例①の母親は、息子の将来のためを思ってそうさせたんだ!」
もう一度『虐待』の解釈を振り返っていきましょう。
虐待の解釈を振り返る
もう一度虐待の説明を添付しました。
虐待(ぎゃくたい、英:abuse, maltreatment)とは、繰り返しあるいは習慣的に、暴力をふるったり、冷酷・冷淡な接し方をすることである。具体的な内容は様々で、肉体的暴力をふるう、言葉による暴力をふるう(暴言・侮辱など)、いやがらせをする、無視をする、等の行為を繰り返し行うことをいう。
例①の子どものことを思い出してください。
公園で遊びたいのに遊べない。一日中ずっと勉強漬けの日々。将来は医者になれ、というプレッシャー。両親も自分のために頑張っていることを子どもながらにしてわかっている。それだから、やっぱり頑張らないといけない。期待に応えなければダメだ。自分のやりたい事を押し殺して、塾に通う。成績が下がるとお母さんが怖い。大きな声で怒られるんだ。もっと勉強しないと。勉強しないとビンタされるよ😭
こんな心情でしょう。彼の気持ちになりきってみてください。
繰り返し、あるいは習慣的に、精神的圧迫を与えています。成績が悪ければビンタして怒るのであれば、それは肉体的暴力も与えています。
母親が子供に対してやっている事
これは、まさしく『虐待』なのです。
そんな!?子どもの将来を思ってるんだぞ💢
「虐待」は、家庭内の「いじめ」です。
ですので、子ども自身が「辛い」と感じたら、虐待になりうるのです。
相手に心理的、肉体的苦痛を与える行為には、
どんな理由であっても許される行為ではありません。
正当な理由があったら「いじめ」が許されるのでしょうか?
違います。
どれだけ子どもの為を思おうと、子供も1人の人間ですので、納得した理由なく苦痛を与えて良い訳ない。
みんなの幸福につながらないのです。
どれだけ子どもの為を思ってしたことでも、子供が負担に感じていたり、辛い思いをしていたりすると、
それは立派な虐待なのです。
善意の虐待と悪意ある虐待
虐待の説明(Wikipedia)では、虐待に関して
『加害者側の意図』に関しては言及していません。
これは、先述しましたとおり、
全ての他人への干渉が虐待になりうる物だということを含んでいます。
ですが、まだわだかまりが残ることでしょう。
ここで新しい概念を提唱します。
善意の虐待。悪意の虐待。
虐待。
この言葉が、他人への干渉の結果、干渉された人がなんらかの苦痛を感じること。の全ての事象を言い表すとします。
すると、先ほど挙げた二つの例はどうでしょうか。
どちらも虐待である。
こういう風に結論づけられます。
ですが、世に言う虐待とは、少し違う気が。
ここで
- 善意の虐待
- 悪意の虐待
の新概念を考えてみましょう。
善意の虐待とは、加害者側が、被害者の為を思ってした行為によるもの。
「良かれと思ってしたこと」が引き起こした虐待のことです。
対して、悪意の虐待とは、加害者に危害を与えることを目的とする行為によって引きおこされた虐待を指します。
先程の例は、善意なのか、悪意なのか。
僕は、先ほどの二つの例は
どちらも、「善意の虐待」だったと解釈しています。
どちらの親も、我が子の為を本心から思っていたと言うところで善意です。
また、どちらの場合も、子供が過度の負担を強いられていた。のも事実です。
以上のことから、わかること
ここまで論考でわかったことをもう一度整理します。
- あらゆる他人への干渉が虐待になりうる
- 虐待には二種類。(善意、悪意)
- 例のような場合は善意の虐待
虐待という言葉の認識を少し補正していますので、わかりにくいところもあるかもしれません。しっかり理解していただきたいです。
善意の虐待の中でもとりわけ
これまで読んできた皆さんは、
上述した二つの例がどちらも虐待としての性質を孕んでいる。
ことをお分かりいただけたかと思います。
では、本題の、教育虐待とは何か?に迫ります。
善意の虐待、の一分野
善意の虐待の例として、例①と例②を提示しました。
二つの中で、
「教育虐待」に当てはまるのは、
例①です。
教育虐待とは、
教育という大義名分の元、子供たちの意思や行動を制限し、子供に必要以上の負荷を与えてしまい、子供の肉体、精神の健康を損なうこと。
このことです。
※確かに、例②の場合も広い意味で「教育虐待」なのかもしれませんが、少し論点からずれるのでその考察はここではしません。
親の思いは子の思い、ではない
例①の両親は、心の底から子どもの将来を思っていたとします。
医者になって安定した生活を手に入れることこそが、我が子の幸せになるはずだ、と。
その考え自体を否定しているわけではありません。
ただ、子供と親との間で認識のズレが生じてしまっている。
子供はまだまだ経験が浅く、判断できないかもしれません。しかし、それを理由に子どもの行動を制限していいわけではないはずです。
例の両親は、「教育」という大義名分で我が子を消耗させてしまっていました。
それと同時に、自分自身も蝕んでいってしまっているのです。
求めていない事を無理やりやらせることが教育ではない。
是非その事を再度確認してくださいm(_ _)m
現代に蔓延る教育虐待
この「教育虐待」について理解を深めていただけましたか?
子どもの将来のためだから、と厳しい環境に子供を置く、。
このこと自体を否定するものではありません。
ただ、現代の社会において、あまりに子供にたいし、受験や学歴といったステータスを求めすぎるあまり、
子供を過度に追い込んでしまっている状況が多々見られます。
それに、この教育虐待のたち悪いところは
加害者も被害者もいいことだと信じ込んで、辛いのを我慢している。
ということです。
親も受験させようと躍起になる。
子供もそれを感じ取り、過度に背負い込む。
そして気づかぬうちに蝕まれていく。
最終的には、家族間での対立や溝、心身の病的な不調、を引き起こします。
そしてその多くの場合、二度と関係が修復することはありません。
なぜなら、互いに悪いことをしたという自覚がなく、相手の気持ちもわかる。なのに対立してる。そんな状態になってしまうのです。
泥沼化して目的も失った戦争のように。
個人を尊重し、対話を図ろう。
僕自身、教育虐待とまではいきませんが、教育や将来の為、という大義名分のもとに、
自らを消耗し、両親も消耗してしまっていました。
この経験があるから、少しでも多くの人に、この事を考えて欲しい。
この記事を読んで、
「自分は違う。」
「そうは言ってもあの子の為だもの」
「親や先生が言うから間違いない」
と思っている方にこそ、もう一度自問自答して欲しい。
教育で虐待していないか?
教育で我が子を苦しめていないか?
教育で自分自身を大切にできているか?
自信を持って、「確実に大丈夫だ。」と言える人は現状多くはありません。
少しでも引っかかるので有れば、家族との対話の時間をもうけ、今自分が、モヤモヤしているんだと言う事だけでも伝えてみましょう。
まだ間に合います。取り返しがつかなくなる前に、行動してください。
充実した人生を全ての人が送れるように。